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牙山(アサン), 平澤(ピョンテク) #1 - みんな知っているが詳しく知られていない李舜臣(イ・スンシン)の話。牙山(アサン)顕忠祠(ヒョンチュンサ) - (Korea Tour)
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最後修改 : 2017/02/18

旅行地区 : South Korea
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  • 牙山(アサン)顕忠祠(ヒョンチュンサ)
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韓国人が最も尊敬する人物のアンケート調査では、常に忠武公(チュンムコン:충무공)李舜臣(イ・スンシン:이순신)将軍の名前があがります。彼は10歳から20歳まで文科科挙試験の準備をしていましたが、どうしたいきさつからか、武科に進路を替えて31歳になってから合格し、順調とはいえない官職生活が始まります。最初の赴任地は咸鏡道(ハンギョンド:함경도)の辺境で陸軍で目立った活躍を見せなかった彼が、何回か海軍と陸軍を渡り歩く紆余曲折のあげく、人生の転機を迎えます。英雄は乱世に現われると言われますが、北方の末端将校から壬辰の乱を14ヶ月後に控えた時点で彼は、全羅左道水軍節度使(ジョンラジャドスグンチョルドサ:전라좌도 수군절도사)に任命されます。我が国にとっては思いもよらなかった天の恵みでした。今日私たちが尊敬してやまない、しかし詳しく知られていない彼の人生をしばらく語りながら、顕忠祠(ヒョンチュンサ: 현충사)に入ってみましょう。



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一晩中雪がたくさん降って、顕忠祠の前はいちめん雪野原に変わりました。おかげで今回の旅行は雪とのたたかいでしたが、雪景色はたくさん撮れそうですね。




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顕忠祠に入ると真先に「忠武公李舜臣記念館」があります。ここには忠武公に関わる様々な国宝や宝物(指定文化財)級の展示物を見ることができます。よく見てみると、歴史の本で何行かの要約で簡略的に学んだことのある彼の人生を、少し詳しく知ることができます。




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わ~。文字で形を作ってあるこの本は「忠武李公戦陣図帖(チュンムイコンジョンジンドチョプ:충무이공전진도첩)」という本です。十種類の陣法を紹介していますが、私たちがよく知る 「鶴翼陣(ハクイクジン:학익진)」が一番左です。先端を鶴の羽のように半円形に取って、敵を包囲し攻撃する陣法です。




その他にもたくさんの書籍が展示されています。左側上段は壬辰の乱の時、李舜臣が朝廷に献上した文書を書き写した壬辰壮草(イムジンジャンチョ:임진장초)、右側上段は彼が親戚に送った手紙を編纂した書簡帖(ソカンチョプ:서간첩)、そして右側下段は壬辰の乱の時の忠武公の日記を編纂した乱中日記(ナンジュンイルギ:난중일기)です。これらはすべて、現在国宝第76号に指定されています。


そして左側下段は1576年武科に合格した際、王が下した教旨(ギョジ:교지)、最近の言葉で言うと合格証です。宝物第1564-7号に指定されています。忠武公が武科に合格後の初任地は咸鏡道辺境の末端で、位は従9品でした。そこで彼は3年間勤務し8品の位をもらってソウルに上りましたが、上官の非道に反旗を翻すも 8ヶ月で忠清道(チュンチョンド: 충청도)に左遷されるようになります。この事件に注目した人がいますが、それが懲毖録(ジンビロク:징비록)を綴った柳成龍(ユ・ソンリョン:류성룡)でした。柳成龍は当時の偉大な学者だった退渓(テゲ:퇴계)李滉(イ・ファン:이황)の弟子で中央の要職をあまねく経験していた人物ですが、これが縁で柳成龍は忠武公の一生にこの上なく大きな影響を及ぼすようになります。




韓国の100ウォン玉の表に刻まれた彼の肖像画、いつ見ても誇らしいです。右は今紹介した懲泌録(国宝第132号)ですが、壬辰の乱の当時、領議政(ヨンウィジョン:영의정)を務めていた柳成龍が、壬辰の乱が終わると戦争を振り返って反省し、子孫に再びこのような事が生じないように諭すために作成した本です。




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記念館を出て広い庭を横切ると「忠武門」があり、そこを通ると顕忠祠と彼が暮らした古宅(コテク:고택)などがあります。雪の降った平日の朝訪れると、人の足跡もほとんどなく、観覧客も私ひとりだけのようですね。誰も踏み入れていない雪は私がみんな足あとをつけて行こうっと!


彼の話を続けると、李舜臣は末職でしたが、中央で勤めるようになり、大きな機会に恵まれます。王を除いて朝鮮で最も重要な人物であり、当時吏曹判書(イジョパンソ:이조판서)の要職にあった権力者、栗谷(ユルゴク:율곡)李珥(イ・イ:이이)が李舜臣に会いたがったからです。このことを李舜臣に伝えたのは柳成龍でしたが、その知らせを聞くと忠武公はたちどころに断ってしまいます。理由はたった一つ、栗谷が人事権を持つ重職にあったからです。人が成功するためには、自分を認めて支持してくれる存在がどうしても必要なものですが、従8品の末端官職にあった者が吏曹判書の申し出を断ったのです。彼のこのような態度は、今の時代の人たちに示唆するところが非常に大きいと思います。




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再び忠武門に入ると、右の方に「旌閭(ジョンリョ:정려)」という楼閣が見えますね。旌閭は忠臣、孝子、烈女が現われた村に王が下賜した扁額(ピョンエク:편액)をかけて、後世の模範とさせる目的を持った建物です。ここには忠武公と彼の甥、そして子孫まで全部で5人の扁額がかかっていますね。すごい家ですね。




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誰にも踏まれていない雪を見て一人で喜んでいました。自分の領域を示す子犬のように、あちこちに転がって跡を残してまた出発~




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わー、村の中央にはとても大きな松がずっしり構えていますね。この松は松の変種ですが、枝が下から横に分かれて伸びる松です。110年位経っていますが、この大きさには驚きますね。素敵です。




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松がある所から右の方に少し上がると忠武公が暮らした古宅があります。ここは彼が21歳の時結婚して舅からもらった家ですが、31歳で武科に合格する前まで暮していました。家の裏手には彼の位牌が奉られた一家の祠堂があって、毎年法事も行なわれているそうです。




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家の横には、樹齢500年を越える古い銀杏の木が二本ありますが、ここが李舜臣将軍が弓の練習をした所です。この銀杏の木は彼が露梁海戦(ノリャンヘジョン:노량해전)で戦死した後、棺が家の前を通って埋葬地に向かう姿を見守っていたことでしょう。




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先ほど見た松から左の道を上がると、忠武公の精神と偉業を称える場所、顕忠祠があります。1706年(肅宗(スッジョン:숙종)32年)に牙山(アサン:아산)の儒学生が朝廷に許しを得て建てたものですが、肅宗が「顕忠祠」という懸板を下さり、その名前が今日まで伝わっています。日帝強制占領期間には李氏の宗家の事情が厳しくなり、競売にかけられそうになったこともありましたが、全国から寄付が集まって守り通せたそうです。




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階段を上がると彼の全身肖像画が威厳をもってかけられています。黙祷をしてから、彼の面前にカメラを突き付ける意欲がわかず、写真を収めることができませんでした。朝鮮最大の国難と言われた壬辰の乱、日本軍が釜山浦(プサンポ:부산포)から侵略し、7年の間、朝鮮の国土と国民は悽惨なまでに破壊されました。わずか半月でソウルが陥落され、宣祖(ソンジョ: 선조)は都を捨てて鴨緑江(アンロクガン:압록강)辺りまで逃げ、朝鮮は滅亡寸前になります。しかし忠武公は玉浦海戦(オッポヘジョン:옥포해전)を皮切りに露梁海戦まで20回以上の戦闘にすべて勝利しました。日本軍の補給路を完全に封鎖することで負け色の濃かった戦況を完全に覆えしたその方の前でカメラを突き付けると言うのは、何とも恐れ多かったのです。




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李舜臣は今も舅から譲り受けた家で牙山市内を見下ろしているのでしょうか? 彼の人生で最大の苦難は、きっと日本軍を攻撃しろという王の命令に従わずに逮捕され、白衣従軍していた時だったと思います。この時代、彼は日記(後日「乱中日記」に編纂された)にこんな風に綴っています。1日(辛酉)。晴れ。獄門から出る。南門(崇禮門) の外の尹侃(ユンガン:윤간)(朝鮮の文官)の僕の家で家族たちと長い時間語り合った。そして多くの役人が尋ねて来たので会い、彼らが持って来た酒を飲んで酔い、慰労を受けた。領議政柳成龍や別の高位官職者も人を遣わしてあいさつに来た。(理解しやすいように私の任意で異訳して内容を縮約しました。)


彼は自分の日記を、後に他の人が本に編纂するだろうとは思わずに書いたことでしょう。日記は感情を最大限に排除して事実だけ書いてあります。勝ちに勝ちを重ね国家の危機を兔れたものの、理由もなしに急に逮捕され、辛苦を味わうなど、悔しくて当然の人が書いた日記とは、とうてい信じられないほどに怒りが排除されています。彼の偉大さは、常に平常心を保ち冷静に対処するところから始まったのではないでしょうか?




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出てくる所で後ろを振り返ると、紅虄門(ホンサルムン:홍살문)の前に松が屋根を成しています。それについてどう文を書こうか考えていたら、胸が熱くなってくるのを感じました。


彼の話に戻ると、戦争が小康状態から再び勃発したのは、丁酉年(1597年)でした。一般的に丁酉再乱(ジョンユジェラン:정유재란)と呼ばれています。その年元均(ウォン・ギュン:원균)は、海軍(水軍)を率いて漆川梁(チルチョンリャン:칠천량)で大敗を喫すると、朝鮮の海軍は壊滅してしまいます。日本軍は直ちに南原(ナモン:남원)と全州(ジョンジュ:전주)を通って再びソウルに進撃します。状況がどうにもならないほど悪化すると朝廷は忠武公を遅ればせながら三道水軍統制使(サンドスグントンジェサ:삼도수군통제사)に再度任命します。教旨で王は李舜臣の地位をとり替えて、今日のような敗戦の恥辱を味わったことをわびる気持ちを伝えますが、海軍の残った船はわずか13隻しかありませんでした。そして1カ月後、彼は鳴梁(ミョンリャン:명량)に向かうと、わずか13隻の艦船で奇蹟的な勝利を収めます。この時、戦闘に参加する前、彼の書いた文句が「必死則生(ピルサチュクセン:필사즉생)、必生則死(ピルセンチュクサ:필생즉사)」です。


そしてある晴れた日、天安(チョナン:천안)で彼は息子の戦死の知らせを受け取ります。その手紙を開ける前から、頭がクラクラし、封筒に「慟哭」の二文字が書かれていたことから、手紙を読む前に彼は声をあげて泣いたことでしょう。天はどうしてこうもむごいのか、と泣き叫んだ一日が一年にも相当する彼の心情が私にも感じられました。




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露梁海戦で壬辰の乱が終わると同時に彼の人生も終わりました。死後彼に 1等功臣と左議政(ジャウィジョン:좌의정)が追贈され、正祖 (ジョンジョ:정조)17年(1793年)に至って領議政(ヨンウィジョン:영의정)が追贈され、李忠武公全書が王命によって刊行されました。上の写真は正祖が彼に下した「領議政贈職教旨(ヨンウィジョンジュンジクギョジ:영의정증직교지)(宝物第1564-16号)」です。そして現代に至っては、光化門(クヮンファムン:광화문)広場に彼の銅像が立てられて、顕忠祠が大々的に整備され、韓国で最も偉大な英雄として残るようになります。私たちの英雄、今日彼を思って一日を過ごしてみるのはどうでしょうか。



+ 住所 : 忠清南道牙山市塩峙邑白巖里(チュンチョンナンドアサンシヨンチウプベガンリ:충청남도 아산시 염치읍 백암리) 100
+ 電話 : 041-539-4600
+ 観覧時間 : 午前9時 ~ 午後5時 (夏期は午後 6時まで)、毎週月曜日休館
+ 入場料 : 無料


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아산, 이순신, 현충사, 충무공이순신기념관
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